Masuk「(リアリティが必要だと言っただろう。……それに)」
彼は顔を上げ、私の瞳を覗き込んだ。 至近距離で見つめる彼の瞳孔が、夜の獣のように開いているのがわかる。「(君も、感じているんじゃないか?)」「……っ、馬鹿なこと言わないで!」 否定しようとする言葉とは裏腹に、私の身体は正直だった。 彼が動くたびに擦れる浴衣の感触。私の上に覆いかぶさる彼の確かな重量感。 そして、太腿の間に差し込まれた彼の膝が、私の最も無防備な場所を圧迫している感覚。 すべてが、あのスイートルームでの記憶を呼び覚ます引き金になっていた。「……ん、ぁ……っ」 私の口から、意図せず甘い声が漏れる。 今度は演技じゃない。 湊の手が、私の浴衣の帯に手をかけた。「(まっ、待って! それはダメ!)」 私は慌てて彼の手を押さえた。 契約違反だ。演技の範疇を完全に超えている。 だが、湊は私の抵抗をいとも簡単に制し、私の両手首を片手で頭上に縫い止めた。「(暴れるな。……衣擦れの音が不自然になる)」 彼はそう囁くと、空いた手で、私の浴衣の裾から手を滑り込ませた。「……!?」 ヒヤリとした外気と共に、彼の熱い掌が私のふくらはぎを掴む。 そして、ゆっくりと、撫で上げるように太腿へと這い上がってくる。「……や、あっ……!」 声が出る。抑えられない。「湊、さん……ほんとに、だめ……」「……朱里。可愛いよ」 湊は、演技用の大きな声で言いながら、その指先は容赦なく私の内腿を刺激する。「もっと僕を感じてくれ。……愛している」「愛している」という甘いセリフ。帰りの車内は、行きとは違う質の沈黙に満ちていた。 運転席との仕切り(パーテーション)が上げられ、後部座席は完全な密室となっている。 湊は私を抱き寄せることもなく、けれど私の手首だけは絶対に離そうとしなかった。 自分の太腿の上に私の手を固定し、親指で何度も、何度も、脈打つ血管の上をなぞっている。 その執拗な指の動きが、彼の不安定な心を雄弁に物語っていた。 マンションのエレベーターを降り、玄関のドアが閉まった瞬間だった。 ドンッ! 私は壁に押し付けられた。 靴を脱ぐ暇さえなかった。 湊の重たい身体が、覆いかぶさるように密着する。「……み、なと……?」「消毒だ」 呟くような声と共に、彼の唇が私の頬――征司が触れた場所に押し付けられた。 キスではない。噛み付くような、所有の印を刻み込むような痛み。「っ……!」「ここも、触られたか? ここは?」 彼の唇が、頬から首筋へ、そして肩へと熱く移動していく。 火傷しそうなほど熱い。 パーティーで見せていたあの冷静な仮面はどこへ行ったのか。 今の彼は、嫉妬と独占欲に理性を焼かれ、ただ本能のままに獲物を追い詰める獣そのものだった。「湊、待って……! こんなの、契約にないわ……!」 私は必死に声を絞り出した。 『業務外の私的接触は禁止』。 自分で決めたはずのルールを、彼自身が破ろうとしている。「契約?」 湊は顔を上げ、私を睨みつけた。 その瞳は、情欲と怒りで揺らめき、濡れている。「そんな紙切れ一枚で、僕の感情を縛れると思うな」 彼は私のドレスのファスナーに手をかけた。 ジジ、と布が擦れる音がして、背中が大きく開かれる。 冷たい空気に晒された肌を、彼の熱い掌が這い回る。 その温度差に、背筋がゾクリと震えた。「お前は僕のも
私は反射的に身を縮こまらせた。「ご、ごめんなさい。足が痛くて、少し休んでいただけなの。そしたら、彼が来て……」「……触らせたのか」「え?」「あいつに。……肌を」 湊の顔を見て、私は言葉を失った。 怒っている。たしかに怒っている。 でも、その瞳の色は、いつもの冷徹な「ビジネス上の怒り」ではなかった。 もっとドロドロとした、暗く、濁った色。 嫉妬。 そう呼ぶにはあまりにも激しく、独占欲と呼ぶにはあまりにも悲痛な光が揺らめいている。「……触らせたのかと聞いている!!」 湊が私の腕を掴んだ。 痛い。昨日、温室で掴まれたのと同じ場所。 でも、今の彼は、あの時よりもずっと焦燥に駆られているように見えた。「ち、違う……! 転びそうになったのを支えてもらっただけで……」「頬を触られていただろう! 見ていたんだぞ!」 彼は私の頬――さっき征司が触れた場所を、親指で乱暴に擦った。 まるで、他の男の痕跡を削ぎ落とそうとするかのように。 ゴシゴシと擦られる摩擦熱が、皮膚を焼き尽くしそうだ。「痛い……っ、やめて、湊!」「なぜ抵抗しなかった。なぜ振り払わなかった!」「だって……彼は優しくしてくれたから……! 氷をくれて、心配してくれて……!」 言ってしまってから、しまったと思った。 その言葉が、湊の中にある何か危険なスイッチを押してしまったのがわかった。「……優しく?」 湊の手が止まった。 彼の瞳から、すうっと光が消える。「そうか。……あいつは優しいか。僕と違って」 自嘲するような、凍えるような響き。「
征司の声は、とろけるような同情に満ちていた。 まるで、雨に濡れた捨て犬を慰めるような、優しい響き。 昨日の湊の怒声が蘇り、ふいに目頭が熱くなる。 誰にも言えなかった。誰にも分かってもらえないと思っていた孤独。 それを、この男はすべて知っている。「僕なら、女の子にそんな顔はさせないけどな」 征司の手が、ついに私の頬に触れた。 湊の手よりも少し温度が低く、乾いた指先。それが、涙を拭うように優しく頬を撫でる。「僕のほうが、君を幸せにできるよ」 甘い毒のような囁き。 心が、ぐらりと揺れた。 弱っている心に、その優しさはあまりにも深く染み込みすぎる。 湊は私を拒絶した。仕事上のパートナーでしかないと突き放した。 でも、この人は――。「……随分と仲が良さそうだな」 その瞬間、テラスの空気が凍りついた。 氷点下の風が吹き荒れたかのような、肌を刺す殺気。 征司の手がピタリと止まり、私も弾かれたように振り返った。 テラスの入り口に、湊が立っていた。 逆光で表情は見えない。 けれど、その立ち姿から滲み出るどす黒い感情が、周囲の空間そのものを歪めているように見えた。「……やあ、湊兄さん。お疲れ様」 征司は悪びれる様子もなく、私の頬からゆっくりと、名残惜しそうに手を離した。その動作一つひとつが、わざとらしく湊を挑発している。「朱里ちゃんが疲れてそうだったから、労わってあげてたんだよ。……大切な婚約者を放っておいて仕事ばかりなんて、感心しないなぁ」「……僕の婚約者に、気安く触るな」 湊が一歩、踏み出した。 カツン、という硬質な革靴の音が、まるで銃声のように響く。「汚れる」 吐き捨てられた一言に、征司の張り付けたような笑顔が凍りついた。「……相変わらず、潔癖だねぇ」「消えろ、征司。&hellip
それは馬鹿にするような色ではなく、純粋な称賛の響きを含んでいるように聞こえた。「綺麗に着飾っただけのお人形かと思ってたけど……君は、ちゃんと生きてるね。あの血も涙もない湊の隣にいるには、もったいないくらいだ」「……湊は、血も涙もない人なんかじゃありません」 考えもしないうちに、言葉が口をついて出ていた。 自分でも驚く。あんなに冷たくされているのに、どうして彼を庇うようなことを言ってしまうのだろう。「へえ? 随分と愛されてるんだな、兄貴は」 征司は面白そうに目を細めた。 彼はポケットからハンカチを取り出すと、何かを包んで私に差し出した。「ほら。これ、使いなよ」「え……?」 差し出されたハンカチは、冷たい水滴を帯びていた。中に入っているのは氷だ。おそらく、会場のドリンクコーナーから拝借してきたものだろう。「足、痛いんだろ? 冷やすと少しはマシになるよ。……湊はそういう細かいとこ、気がつかないからなぁ」 そのさりげない気遣いに、強張っていた胸の奥が少しだけ緩む。 湊なら、「我慢しろ」と切り捨てるか、あるいは有無を言わさず抱き上げて運ぶかのどちらかだ。こんな風に、目線を合わせて労ってくれることなんて、きっとない。「……ありがとうございます」 私は素直に礼を言い、ハンカチを受け取った。 布越しに伝わる氷の冷たさが、熱を持ってズキズキと痛む足首に染み渡り、心地いい。「ねえ、朱里ちゃん。……って呼んでいい?」 ふわり、と甘い匂いが近づいた。 征司が、音もなく距離を詰めてきている。 私の名前を呼ぶ声が、妙に馴れ馴れしく、それでいて拒絶できない甘さで絡みつく。「君、無理してない?」「……え?」「顔に書いてあるよ。『疲れた』『寂しい』『褒めてほしい』って」 図星だった。 心臓が早鐘を打ち、息
「おや。シンデレラの魔法は、もう解けちゃったのかな?」 背後から、歌うような、それでいてどこか粘り気のある男の声が鼓膜を震わせた。 ビクリと肩が跳ねる。 誰かに見られた。 慌ててヒールを履き直そうとして、バランスを崩した私の身体が大きく傾く。「わっ、と……!」「おっと、危ない」 コンクリートの床に叩きつけられると身構えた瞬間、伸びてきた腕がふわりと私を受け止めた。 湊の、あの拘束するような力強い腕とは違う。 もっと柔らかく、まるで壊れ物を扱うように繊細で、女性の扱いに慣れきったスマートな手つきだった。 鼻をくすぐったのは、甘いバニラの香りと、残り香のような煙草の匂いが混じり合った、退廃的な香り。「……大丈夫? 無理して履かなくていいよ。痛いんでしょう?」 顔を上げると、驚くほど近くに端正な顔があった。 茶色がかった髪を無造作に遊ばせ、切れ長の瞳が優しげに弧を描いている。造作は湊によく似ているのに、彼のような人を寄せ付けない威圧感はない。代わりに、人懐っこい犬のような、あるいは甘い蜜で虫を誘う毒花のような、危険な愛嬌が漂っていた。「……ありがとうございます。あの、あなたは……?」 私は体勢を立て直し、乱れた髪を直しながら少し距離を取った。 この会場にいるということは、かなりのVIPなのだろうか。「九龍征司(せいじ)。……さっき挨拶に来た、剛造の息子だよ」「征司、様……」 喉の奥で息を呑む。 湊のライバル。九龍家の次期当主の座を虎視眈々と狙う、もう一人の候補者。 そして、湊からかつて「大切なもの」を奪ったという因縁の男。 私は反射的に身体を強張らせ、一歩後ろへ下がった。「はは、そんなに警戒しないでよ。僕は親父みたいな古狸じゃないし、湊みたいな堅物でもないからさ」 征司は、私の警戒心などお見通しだと言わんばかりに、両手
宴の熱気は、まだ会場のあちこちに澱(おり)のように残っていた。 急遽変更した立食形式のパーティー――「ピンチョス・スタイル」への転換は、私の予想を超えてうまくいったようだ。 去りゆく招待客たちが口にする「素晴らしい機転だ」「九龍家の新しい風を感じた」という賛辞が、さざ波のように耳に届く。 けれど、その言葉は私の胸を素通りして、どこか遠い場所へ消えていくようだった。 会場の出口では、湊が主催者としてゲスト一人ひとりを見送っている。 手入れの行き届いたスーツを隙なく着こなし、優雅に頭を下げるその横顔は、まさしく「若き帝王」のそれだ。自信に満ち、冷ややかなほどに美しい。 ついさっきまで私の隣にいた時の、あの少しだけ肩の力が抜けた、人間味のある湊はもうどこにもいなかった。 魔法が解けたみたいに、彼はふたたび雲の上の人へと戻ってしまったのだ。「……はぁ」 私は人目を盗むようにして、会場の隅にあるテラスへのガラス戸を押し開けた。 夜の湿り気を帯びた風が、火照った頬を撫でていく。 途端に、堰を切ったように泥のような疲れが全身にのしかかってきた。 張りつめていた緊張の糸が、ぷつりと切れたせいかもしれない。あるいは、履き慣れないハイヒールで走り回った代償だろうか。足の裏が脈打つように熱を持ち、ジンジンと痺れるような痛みを訴えている。 手すりに身体を預け、眼下に広がる夜景を見下ろした。 ここから見える東京の街は、誰かが宝石箱をひっくり返したみたいに輝いている。さっきまで私が会場で演出していた「偽物の宝石箱」とは違う、残酷なほどに美しい本物の光だ。(……終わったんだ) なんとか、守りきった。 湊の顔も、ホテルの信用も。 でも、胸の奥には風が吹き抜けるような穴が空いたままだ。 パーティーの最中、湊はたしかに私を見て「ありがとう」と言ってくれた。あの瞬間、ほんの一秒だけ、私たちの間に通うものがあった気がした。 けれど、ゲストの見送りが始まった途端、彼の瞳から私の姿は消えた。 まるで







